無線従事者試験の思い出
40数年前、無線技術が輝き、アマチュア無線が青少年の科学的好奇心を満足させていた頃、
電話アマを取得しました。以来、何らかの形で無線、無線従事者資格に関わってきました。尚、年月日は免許の年月日です。
★電話級アマチュア無線技士(4アマ)−−−昭和51年12月13日
紅顔の美少年でした。広島大学工学部で受験しました。国家試験であり、試験官も電波監理局の
役人ということで、今の無線協会の試験とは違う感覚でした。
★電信級アマチュア無線技士(3アマ)−−−昭和52年12月15日
広島大学工学部で受験しました。電気通信術の試験は緊張しました。合格後は、指定事項の変更後、
直ぐにCWデビューしましたが、国家試験よりも緊張しました。CWにも慣れたある日、Uゾーン(当時のソ連)の局と交信
した際、先方が「Can you do?」と打ってきました。なんのこっちゃ、変な英語だなと何度か聞き返したのですが、交信終了後
「do」ではなく「ホレ」だったと気付きました。外国の人でも和文を知っているという驚きが、和文の修得のきっかけとなりました。
★第2級アマチュア無線技士(2アマ)−−−昭和53年 6月 6日
「committee」はいやな単語
やはり、広島大学工学部です。
通信術の試験は、やはり緊張しました。今でも受信の試験で「committee」の単語の末尾を慌てて筆記したのを鮮明に
覚えています。欧文普通語は、その後、1総通の受験の際も苦労しました。何はともあれ14MHzにQRVできることで世
界が広がりました。
★特殊無線技士無線電話甲(2海特)−−−−昭和59年 5月 7日
当時の東京の受験会場は、蒲田、池袋、入谷の専門学校と晴海でしたが、どこだったかは覚えていません。
甲乙丙丁の「甲」だったので特殊無線技士の最高峰かなと思っていました。特殊無線技士の資格は何か目的があった訳ではありません。無線従事者資格制覇を具体的に考えるのもずっと後のことでした。
★特殊無線技士レーダー(レーダー特)−−−昭和59年 5月 7日
レーダーの基礎が学べました。気楽に受験できた資格でした。
★電話級無線通信士(4海通)−−−−−−−昭和59年 5月23日
受験地は、千代田テレビ技術学校(現在、休校中)だったと思います。電話の送受話の試験の存在が新鮮で、この資格もプロ
なんだなと感じました。
★航空級無線通信士(航空通)−−−−−−−昭和59年10月20日
何故か、広島市内で受験しました。場所は忘れました。
★特殊無線技士多重無線設備(1陸特)−−−昭和59年10月22日
東京の晴海で受験しました。初めてのマイクロ波の世界は新鮮でした。
★特殊無線技士無線電話丙(航空特)−−−−昭和59年10月22日
東京で受験しました。
★特殊無線技士無線電話乙(2陸特)−−−−昭和59年11月 7日
東京で受験しました。
★特殊無線技士国際無線電話(1海特)−−−昭和59年12月24日
全課目免除で、受験はしませんでした。無線工学は2アマで免除だったと思います。当時は、アマチュア無線技士
でも課目免除の対象でした。
★第1級アマチュア無線技士(1アマ)−−−昭和61年 6月16日
東京で受験しました。まだ、筆記試験で、和文も欧文もありました。このころから1通、1技
を意識し始め、単なる通過点という感覚で2アマ合格ほどの感動はありませんでした。
★特殊無線技士無線電話丁(3海特)−−−−昭和61年 7月25日
全資格制覇を目指したので、取り敢えず、取得しました。
★第2級無線技術士(2陸技)−−−−−−−昭和63年 5月20日
転勤に伴う転居等で、受験できずに、時間がかかりました。最終的には蒲田の日本工学院で受験しました。
★特殊無線技士国内無線電信(国内電信特)−昭和63年 5月20日
電波管理局が試験会場
受験地は、何と東京大手町の本局でしたが、試験会場
を間違えて竹橋付近の合同庁舎をうろうろしてしまいました。ラフな格好でうろうろしたので、合同庁舎内ではかなり怪しい感じだったと思います。
今だったら、警備員に確保され、つまみ出されたと思います・・・ やっとたどりついた、本局での電気通信術の送信の試験の際、
試験官が受験票をみながら親しく話しかけてきたので、無視しても悪いと思い、世間話をしながら必死で電鍵を叩いたのも、懐かしい
思い出です。この時の試験場備え付けの電鍵が日本無線のKY-3Aで、打鍵感覚に惚れ込み、購入し、現在も使っています。
★第1級陸上無線技術士(1陸技)−−−−−平成 3年 4月17日
8Hの鉛筆とは!! こんなの誰が使うんじゃ?
蒲田の日本工学院で受験しました。
予備試験の10年の期限、ぎりぎりだったと思います。試験当日、風邪をひいて「ぼんやり」しており、筆記具一式を忘れてしま
いました。慌てて飛び込んだ試験会場近くの文房具屋で舶来(STADTLER)の「HB」の高級鉛筆を買い(このメーカーのものしか
なかった。)、これで試験に臨みました。当時、記述方式の試験の解答用紙は、ノートのような装丁で数ページあるものでし
たが、書けば書くだけ答案用紙が破れ、そのとき初めて購入した鉛筆が「8H」であることに気付きました。結局ボールペンで
解答して急場をしのいだことが昨日のことのように想い出されます。この資格取得後、職場において、第1級陸上特殊無線技士
の養成課程の講師を何度が務めさせていただきました。その後、資格に基づく教員免許も取得することができました。
★第1級総合無線通信士(1総通)−−−−−平成19年 4月11日
30年来の夢の実現
札幌で受験しました。きっかけは、
1総通の資格が近々なくなるという噂話しを聞きつけたからです。(噂話であり根拠はなかったみたいですが・・・)
しかしながら願書は出したものの、勉強は遅々として進まず、電気通信術はアマチュア無線での実績、地理もアマチュア
無線を通じた知識の蓄積、法規は過去の受験に基づく実績でなんとかなるだろうとの勝手な判断をしました。英語だけは、
英語と無縁の生活をしてウン十年もたつので、NHKの語学講座で昔を想い出しました。そんな調子で、取り敢えず様子伺いで
受験したのですが、法規を除き一発合格、さすがに、近年の法令の大幅改正に対応していない古い法規の知識は無
力でした。その法規の、知識をリフレッシュした2回目では、万全の準備で合格することができました。
札幌の受験会場は、北海道特定郵便局協会の建物で、通信士の学科試験は総通、海通の全資格とも同一の部屋で行われました。
1総通学科試験の受験者は、各科目とも3〜4名で、20年前の蒲田の試験会場を知る者にとって、寂しい限りでした。電気通信術の
備え付け電鍵はハイモンドHK-702で、安定感のない長机に置かれただけのもので、打つ度に机が上下したので左手で押さえながら
打鍵しました。昔の試験会場では、クランプ状のもので机に電鍵が固定されていたのですが…
尚、余談ですが、合格祝いに我が家の財務大臣から新無線機購入の認可を受け、ICー7000Mをゲットすることができました。
★第1級海上無線通信士(1海通)−−−−−平成19年10月26日
グランドスラム達成
勢いに乗って札幌で受験しました。
これで、第1級○○無線△△士 6資格 グランドスラム達成です。
★第1級海上特殊無線技士(1海特)−−−−−平成20年3月13日合格
同一人に同一免許は付与されない!!
特殊無線技士国際無線電話を取得していましたが、
英訳のある手帳方式の免許証を入手するため受験しました。自己採点結果は満点で、予定通り合格通知を受領しました。
免許様式変更後の4月に入り、免許申請をしましたが、数日後、北海道総合通信局から電話があり、同一人に同一免許を
付与することになるので、新規に免許は付与できない、再交付として新様式の免許を付与することはできるということでした。
(免許番号も国際無線電話と同一) 国際無線電話は、昭和59年に、関東電波管理局長名で付与されたものですが、今回の
一件により、個人毎の免許付与状況が無線従事者原簿により確実に一元管理されていることが確認できました。国家試験に合格
したのに、新規に免許付与されないということは残念ですが、国際無線電話は、全課目免除での免許取得でしたから、国家試験
受験、合格という手続きをしたということで納得することにしました。
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